車から降りた途端にその土地の丸みを感じる時がある。今日降りたこの地にもそれを感じた。帰宅してから伝承を調べると、その昔、二匹の大蛇がいたずらを重ね、村人たちから戒めをくらい、一匹は死に、残された一匹が野尻湖へ逃げていく際に落とした涙が、このふたつの池になったという。たしかにこう読むと、池を囲むように広がるブナの原生林が、大蛇の涙を纏い、慰めるように踊っているようだったかもしれない。けれど、実際には、水面に梅花藻がいくつも浮かんでいて、その小さな白花たちは小声でワルツを口ずさんでいるように可憐だったし、そのまま暫く眺めていると、何かその上を歩く黒いトカゲのような生き物がある。目を凝らして更に見つめると、その黒いトカゲは、小さなサンショウウオだとわかって、もうとっくに涙は豊かな源泉になっているのだった。対岸に身を乗り出すようにして倒れた白肌の古ブナが、水面に正確に反射して、不思議な形になっている。午後の光がまるで初夏のようで、風は波を立てないから、光が上にも下にも留まっている。水中には、主のような鯉が静かに見回って、春に生まれたのか、手のひらに余るほどの大きさの無数の子鯉もそれに倣っている。透明度の高い水は、水草や木々や空を飲み込んで色彩豊かに澄んでいる。印象は、最初に足を踏み入れた時から見つめを増すごとに豊かに変わり、何も制約がなかったらいつまでもそこにいてしまうぐらい、時間を忘れる場所だった。ふと足元に目をやると、目玉をくりぬかれた時間の経った魚が、半分草土に埋もれている。ギョッとして、思わず声をあげ引け腰で後ずさりしたのに、同時に「クマが目玉だけ食べたのだろうか」などと好奇心は前のめりに思考してしまうのだから、脳と身体のはたらきは、時にちぐはぐなものだ。午後四時を過ぎた春ヒグラシの蝉しぐれは、小鳥のさえずりを消してしまうほど、大きくブナの森に響いている。