バケツリレーと界層と飛蚊症の戯れ

My latest drawing/A4/Fabriano




ちょっと、海を見ながらぼーっとしたくて桟橋広場に腰を下ろした。昨日の制作工程をもう一度頭の中で整理しようと思い乍ら、目の前には行き交う船と、港で仕事をする人々、遠くには霞んだ東京が見える。目の前の波は常に揺らいでいて、港は人工音が空間に隙間なく響く。海辺は喧騒なのだ、と山での静寂のようなものを期待して来た自分に躓いた。同じ自然でも、人々のモチーフに対するアクションが違う。まあ、それもそうか。漁船や商船、外航船や客船にフェリーそんな様々な船が(視覚的にはゆっくりと)海上を移動する隙をついて、魚がピョンピョンと勢いよく跳ねたりもする。よくまあこんな賑やかな水際まで魚が入ってくるもんだなあ。どおりで釣竿を持った老齢の男性が平日の昼間にしては集っているのか、などとぼんやりと思う。目も耳も入ってくるもの全てが静止とは皆無なのかと思って上を見たら、空があった。今日の空は静かだ。雲もなく、よってリズミカルに脈動もせずフラットに静止している。逆にずっと見入っていると、空間認識がどんどん麻痺して急速に距離感を失う。まるで冬森の無音のよう。距離感が狂う時、わたしは少しだけ恐くなり、そして同時にその身体感覚に無性に惹きつけられてしまう。結局昨日の制作を振り返るどころか、目耳に映る振動をただ受け流すだけのバケツリレーのような時間を過ごして、結果的には見事に思考は鎮火できたわけだ。


考えたかったのは、自分がどのように世界を見つめているかということ。整理したかったのは、絵と、描く(えがく)こと、との間には大きな差異があるということ。そのものに成るために描画/デッサン(変態)をすることと、無形を(もしくは無形から)抽出するためにそのメタモルフォーゼを応用することは全く別のレヴェルだ。これが私的絵画の公式に間違いはないけれど、問題はこの無形抽象に色空を纏わせること触れること。そのヒントが自分が世界をどう観ているかなんだけど、それが現在言いようがないから途方に暮れる。何をどう描けば抽象成し得るのか。長い間ずっとこたえを探している。


そういえば今日、海でのバケツリレーの最中に、飛蚊症の黒いシミに焦点を当ててしばらく過ごした。小さな頃から症状はあったけど、しばらく遊ばないうちに私の硝子体のシワも沢山入ってしまったんだな明らかに増えている。半透明で小さなウィルスのような黒粒が追っても追っても逃げていく。その半透明さやゆっくり動くさまが、普段自分が描いている油画の画面のようだった。飛蚊症との戯れにも飽き、思考も鎮火したところで腰を上げ振り向くと、階段状に広がるコンクリートに、さっきよりサラリーマンが沢山座っている。昼時で海を眺めながらのランチタイムなのか食べ物を片手にスマホを操作するひとたち。この空間にいるすべての人ひとりひとりが、それぞれ違う価値観を世界に投影しながら生きていると思うとすごく自由だった。