別の器

去年の今頃は、もっと冷たい空気の中にいた。日々眺める景色も移動手段も食べる素材も今とは違う。思考も、少し変わった。少しづつ変化する日常の中、でも変わらない想いがある。好きなもの好きな人好きな音楽好きな時間。好きという感情は、環境が変わっても、何も変わらない。やっぱり、ずっと好き。ものや音楽や時間は手繰り寄せられる。でも人はそうじゃない。それが、ときに悲しさの種になるけれど。

見過ごさない蓋もしない。悲しくて苦しい気持ちになってしまったとき、私はルービックキューブのように頭の中で悲しみ自体をくるくる回転させる。絵の中の顔料がゆっくり油中を交わっていく速度と同じぐらいじっと。時間がかかっても憎たらしい思いも苦しい感情もひとつひとつ確認する。脳内暴言言いまくり。暴言を吐き切った後ようやくまずは一面クリアするために少しでも気持ちが軽くなるような思考を探す。この変換が最近早くなってきたような気がする。情けないけど私は清廉潔白な輩じゃない。

そんなことをしながらも絵はどんどん色を含んで交わって、固唾を呑むような現象として私を楽しませてくれるから、私はどんなに絵に救われているか知れない。他所様から見たら不思議かも知れないけど絵を描くとき私はただのパイプ役。私自身を絵に託すなんてありえない。そもそもそんな絵見たくない。私にとって描くとは、油筆をとったら私欲を沈めていかに従順にパイプ役に徹して動くかそれだけ。それが難しくもあり至福でもある。