インド時間
玉ねぎを茶色くなるまで炒めている時に、必ずと言って良いほどインドを思い出す。玉ねぎを茶色くなるまで炒めるには、じれったくなるほど時間がかかるのだ。日本のスピーディな生活の中で、この作業は瞑想や夢想に近い。いっそ高次元まで意識を飛ばした方がストレスがない、と思う。程よく熱せられたニンニクの香り立つ中華鍋に玉ねぎを放ち、油を含んで白くしっとりしてくると、水分が蒸発し、湯気が立ってくる。ここまでで既に気持ちがジリジリしてきて、いつもなら「もう、いっかな!」と飴色炒めを断念するところだが、時代はコロナ。限りなく自宅待機。たかだか、15分の瞑想で、1日が台無しになったりしない。逆に、飴色をはしょった分、小さな罪悪感と、こと足りぬ満足感が心に生まれるだけだ。なーに、ケチる事もなかろう。今を生きるのだ。と、鍋の中の玉ねぎを時々混ぜながら、何かを堪忍する。今に腹をくくる。
牛糞にカットした藁を混ぜて乾燥させたゴーリーという燃料を焚き付けに、インドではよく料理をしていた。流石にツーリストだった私がゴーリーから手作りすることはなく、近くのゴーリー屋へ2,3日に一度調達しに行った。そもそも時間が日本とはまるで違うインド。レンガ二つで作った簡易コンロで、焚き付けから始まる料理は一日に二度。朝起きて目覚めのチャイを作るところから、朝ご飯を終えるまでに、悠に4時間はかかる(朝食を食べ終わるのがそもそも11時ごろ)ので、必然的にそれ以上はできない。ゴーリーはよく燃えて、まさに焚き付けにはうってつけなんだけど、逆にすぐ燃え尽きて無くなってしまうから、ゴーリーの強火をうまく利用して、炭へと誘引させなければならない。当時、全く料理をした事もない小娘が、いきなり牛糞を片手にマッチ一本で火を起こし、息をふうふう吹きかけながら料理するなんて、今では想像もつかないだろう。アイデンティティの崩壊なのか構築なのか。結果30年後にこうしてその時の経験が活きているから、まあ、わたしにとっては構築だったんだろう。そうよ、わたしの料理は牛糞から始まったのよ、などと、まだ白い玉ねぎに吐露する。
インドで借りていたアパートメントから歩いてすぐにあるマサラ(スパイス)屋ではたくさんのスパイスが山のように売られていた。最初は、全く、何をどう使うのかちんぷんかんぷんだったけど、アパートでの自炊が始まって10日ぐらい経った頃には、一週間に必要な分のマサラを一人で買いに行けるまでになった。当時のその町のマサラ屋は、てんびん式のはかりを使って量り売り。「ターメリックを○グラムと、ガラムマサラを○グラムください」とかいう具合に、それぞれ必要なものを伝えて買う。借りていたアパートは、メインガートから離れた田舎町だったから、店先に座っているおっちゃんは、外人に小慣れたインド人ではなくて、普通に屋台のおっちゃんで、そのおっちゃんに覚えたてのヒンディーを使って、チマチマと買うのが楽しかった。最初の頃は、日本の小娘から暴利を得ようと、大体の店が笑ってしまうほどの巨額な値段をふっかけてきたけど、度々行って、わたしが近所に住んでいることを理解すると、たまにまけてくれる人も出てきた。日々の買い物リストの中で、ゴーリーとコイラ(炭)が重たい買い物(ゴーリーは軽いけれどかさ張って、コイラは小さいけど量が必要)なんだけど、特にコイラ屋のおっちゃんは優しかった。「アチャ」と無言で首を横に振って、いつもたくさんまけてくれた。わたしが行った頃のインド。今では随分変わってきているんだろうな。あのドゥービーハウスから見たガンガーの夕日。大きな岩の上でいつも瞑想してたサドゥー。世間知らずな娘が、朝起きて夜寝るまでの半年間、チャイとチャパティとサブジー作りに明け暮れた懐かしいインド時間。そのころに、玉ねぎを飴色に炒めるのは当たり前のこと、そう教わった。一度白いままでサブジーを作ったら、いつもより味に深みがなくて、ああ、やっぱり飴色にしなきゃ美味しくならないんだなーって思った記憶が、こうして、何十年経った今でも、思い出す。
と、ようやく茶色に近づいてきた。あと、もうちょっとだ。