しかし今のところは先ずは音と聴覚とについて規定することにしよう。音は二通りある。すなわち一つは現実態においてのものであり、他の一つは可能態においてのものである。〔「この可能態においてのもの」というようなことを言うのは〕或るものども、例えば海綿や羊毛のようなものは音を持つとは言わないけれど、或るものども、例えば青銅や一般に堅くて滑らかなものどもは音を出す可能性をもっているのでーすなわち、それと聴覚器官との間で現実に音を作り出すことができるので、音をもつと言うからである。しかし現実態の音はつねにあるものの、或るものに対する、或るもののうちにおける、ものとして生じる。というのはそれを作り出すのは打撃であるからである。それゆえまた一つのものがあるだけでは、音が生じてくることは不可能である。というのは打つものと打たれるものとは別のものだからである。従って音を出すものは或るものに対して音を出すことになるのである。しかし打撃は運動なしには生じない。しかしわれわれが言ったように、何でもかでも打てば、それが音となるわけではない。例えば羊毛は打たれても、少しも音を作らないが、青銅や滑らかで凹んでいるものは音を作る。青銅が音を作るのは、滑らかであるからである。しかし凹んだものは、運動させられたもの〔=空気〕が外へ出て行くことができないので、最初の打撃の後で反響によって多くの打撃を作るのである。なお、音は空気の中で聞かれる、また水の中でもそうである、しかしその程度は弱い、だが音の主要な原因は空気や水ではない、むしろそれに必要なのは堅いものども相互間の打撃と空気に対する打撃とがなされることである。しかし後のことがなされるのは、空気が打たれた時、溜まっていて、散らばされない場合のことである。それゆえに空気でも速やかに、そして烈しく打たれるならば、音を発する。何故速やかにでなければならぬかというに、打つものの運動が空気の分散に先んじなければならないからである、それはあたかも人が砂の堆積、いや、それの竜巻が速やかに運動するところを打つ場合のようでなければならない。しかし反響が生じるのは、空気を限って、分散させられるのを妨げる容器によってそれが一つのものになっているために、〔それに当たった外の〕空気がちょうど〔壁からはねかえる〕ボールのように再び押し返される時のことである。だが、反響はいつでも生じるようであるが、しかし明瞭なものとしてではない、というのは音においても、ちょうどまた光においても起こるようなことが起こるからである。すなわち光もつねに反射されるのである(何故ならもしそうでなかったら、光はあらゆるところに生じてこないで、陽に照らされているところ以外のところには闇が生じてきたことだろうから)、しかしそれば水や青銅や、あるいはまた他の何か滑らかなものからのように、必ずしも強くは反射されないので、影を作るにはいたらない、この影によってわれわれは光のある〔方向〕を認めるのだが。しかし空虚が聞くことの主要な原因だと〔一般に〕言われるのは正しい、というのは空虚だと思われているのは実は空気であるが、この空気は、それが連続的な一つのものとして運動させられる時に、聞くことを作り出すものだからである。しかし空気は〔希薄なものなので〕砕け易いものであるために、もし打たれるものが滑らかでなければ、〔その表面によって分散させられるので〕叫ばない。しかし滑らかである時には、その表面のせいで、空気は同時に一つのものとなる。というのは滑らかなものの表面は一つであるからである。ところで聴覚器官に及ぶまで連続によって一つであるところの空気を動かすことのできるのもが音を発することのできるものである。しかし聴覚器官には生えつきの空気がある。そしてその器官が空気の中にあることによって。外の空気が動かされると、〔その器官の中にある〕内の空気が動かされることになる。それゆえに動物が聞くのは〔身体の〕あらゆる部分を以ってではない、また空気が入ってくるのもあらゆる部分においてではない。というのは空気を持つのはあらゆる部分においてではなくて、ただ動かされて音を発するにいたる部分だけだからである。ところで空気は壊れ易いものであるために、自分では音を持たない。しかし壊れるのを妨げられる時には、この〔壊れるのを妨げられた〕空気の運動が音となるのである。しかし耳の中にある空気はうまく作られていて〔身体内の邪魔な運動によっては〕動かされないようになっている、それは運動のあらゆる差異を精確に感覚するためなのである。そしてこの理由によって水の中でもわれわれは音を聞くのである。それは水が生えつきの空気そのもののところまで入ってこないからである。しかし耳の中にさえも、内耳の蝸牛殻のせいで、入ってこない。しかしそのことが起こる時には、聞こえない。また鼓膜が病気の時にも聞こえない、それば瞳孔の上の角膜がそうである時と同様である。しかしまた耳が〔それに押し当てられた〕角〔がなる〕ように、常に反響している〔=耳鳴りがしている〕ということは、現に〔音を〕聞いているか、いないかということの徴しとなるものではない、そいうのは耳の中にある空気は常に或る固有の運動を以って動いているが、しかし音は〔その空気にとって〕無縁のもの、つまり、特有のものではなくて〔外からくるものだ〕からである。そしてそのゆえに世間の人々は空虚で且つ反響するものを以って聞くと言っている、そればわれわれが空気の限られたのを以っている器官によって聞くからのことである。しかし音を発するのは打たれるものであるか、それとも打つものであるか。それともまたその療法であるが、しかしそれぞれ別の仕方でなのか。ところで音は、人が叩く時に、滑らかなものからはね返ってくるものが運動させられるちょうどその仕方で運動させられることのできるものの運動である。従って先に述べられたように、音を発するのは、打たれるものと打つものの全てではない、例えば針が針を打つ場合のように、いや、打たれるものは、空気が一まとまりに跳ねかえされ、振動させられるほどに、その表面が平らでなくてはならない。しかし音を発するものどもの差異は現実態の音において明らかにされる。何故なら、ちょうど光がなければ、色は見分けられないように、音がなければ、また鋭い音と鈍い音との区別は聞き分けられないからである。しかし鋭い音とか鈍い音とか言われるのは、触れられるものからの比喩によってなのである。というのは鋭い〔=高い〕音は短時間に感覚をひどく動かすが、鈍い〔=低い〕音は長時間に僅か動かすからである。だから鋭い音が速く、鈍い音が遅くあるのではない、むしろ一方のものの運動がその速さのためにそのような鋭い性質のものとなり、また他方のものの運動がその遅さのためにそのような性質のものとなるのである。そしてそれらはまた触覚に関する鋭いものと鈍いものとに類比関係をもっているようである。すなわち鋭いものはいわば刺すのであるが、鈍いものはいわば押すのだから。それは、一方は短時間のうちに、他方は長時間のうちに動かすので、その結果一方は速く、他方は遅くあるということになるためなのである。ところで音については以上で規定されたことにしよう。しかし声は有魂のものの一種の音である。何故なら無魂のものどもはどれも声を出さない、しかし同様性によって声を出すと言われる、例えば笛やリュラ琴やその他無魂のもののうちで音量や音程や音節をもっている限りのものが、皆そうである。というのは声もまたそれらのものをもっているので、その点で似ているからである。しかし動物のうち多くのものは声を持たない、例えば無血動物や有血動物のうち魚類がそうである。(そしてこのことは音が空気の一種の運動であるならば、当然である。)しかし声を出すと言われる魚ども、例えばアケロオス河の魚どもは鰓、あるいは何か他のそのようなものによって音を発するのである、だが声は動物が適当な部分〔=肺〕を以って発する音ダル。しかし全てのものは、或るものが或るものを或るもの、すなわち空気の中で打つ時に音を出すのであるから、空気を受け入れるものどもだけが声を出すのは当然なことであろう。何故なら自然はすでに吸い込まれた空気を二つの仕事のために使用するからであるーちょうど舌を味覚と音節とのために使用するようなものである、これら二つのうちで味覚は〔生存のために〕必要欠く可らざるものである(このゆえにまた一層多くのものどもに備わっている)が、しかし発声はよく〔生きることの〕ために備わっているのである、こういうようにまた気息も内部の熱のために使用する、それは〔生存に〕必要欠く可ざるものであるからである(しかしその原因は他のところで述べられるであろう)、それからまた善く生きることが存するように、声のためにも使用するのである。しかし喉は呼吸のための道具である。そしてこの部分がそれのために存するところのそれは肺である。何故ならこの肺の部分によって陸棲動物は他の動物どもより多くの熱をもつからである。しかしまた呼吸を必要とするのは他の何よりも先ず心臓の周囲の場所である。それゆえ空気は呼吸されると、内部へ入っていかなければならない。従ってこれら〔肺と心臓〕の部分における霊魂によって動かされて吸い込まれた空気がいわゆる器官を打つと、その打撃がすなわち声だということになる(というのはわれわれが先に言ったように、動物のすべての音が声であるのではなくてーというのは舌を以ってさえも音を出すことができるし、また咳をする人々のように〔舌を用いずに〕音を出すこともできるのだからーむしろ打つものが有魂のものであって、そして何か表象を以っているのでなければならないー何故なら実際声は意味を持った或る音なのだから)。また声は、咳のように、呼吸された空気のたんなる運動ではない。むしろウコンのものはこの吸い込まれた空気を以って器官の中にある空気を器官に打ち付けるのである。そしてその証拠は息をはく時にも息を吸う時にも声を出すことはできないで、息を止める時に、できるということである。というのは息を止める人はこの止められた空気を以って運動を与えるのだから。そして魚どもが何故声を持たぬものであるかということも明らかである。すなわちそれらは喉を持たないからである。しかしこの部分を持たないのは、空気を取り入れたり吸い込んだりしないからである。ところで、そうしないのは、どんな原因によってであるかは、別の問題である。
アリストテレス全集6-第2巻第8章 訳者山本光雄 発行岩波書店より抜粋