龍の沫

 湧泉をさすりながら夜を過ごす日々のおかげか、半減していた晴女が少しづつ復活の兆し。この日も梅雨前線と台風のぶつかり合う大雨の予報だったが、パラパラと降る小雨へとのけることができた。でもまだもう少し、メンテは必要かな。
 三木清の人生論ノートを捲る日々の続きで布引の滝へ来ることになって、雌滝、雄滝と、しっとりと濡れる岩肌の先に、私は初めて龍を見た。じっと、ただ、こちらを見る口の周りを赤くした龍。長く住んでいた戸隠の山上にも九頭龍が祀られてあるのを思い出し、戸隠では一度も見たことがなかったと振りかえる。この滝には龍神の言われもあると説明をされるその方に、「あそこに龍がいるのが見えますか?」と尋ねてみたが、私には見えないという。龍にまつわる諸々に私はさして興味関心はないのだけれど、この初めての龍との出会いは、滝に水があるが如く、事も無げに自然と私の心体へと入ってきた。「梅雨時期を心配したけれど、かえって他の時より水流に勢いがあっていいですね」と説明を続ける声の傍らで、私は幾度か龍から視線を外し、時間をおいて再度見遣った。けれどそれでも、まだただずっと、こちらを穏やかに見ている。その姿はまるで、今日という祠にすっぽりと身をかがめて、静かに景色に馴染んで居るように見えた。一度大きく深呼吸をして、脚下に目線を落とす。叩きつけられ浮かび上がる無数の泡沫を眺めていると、先の哲学者の声が聞こえてくる。


「生命はみづから形として外に形を作り、ものに形を与えることによって自己に形を与える。このような形成は人間の条件が虚無であることによって可能である。世界は要素に分解され、人間もこの要素的世界のうちへ分解され、そして要素と要素との間には関係が認められ、要素そのものも関係に分解されてしまうことができるからであろう。この関係は幾つかの法則において定式化することができるであろう。しかしこのような世界においては生命は成立することができない。何故であるか。生命は抽象的な法則でなく、単なる関係でも、関係の和でも実でもなく、生命は形であり、しかるにこのような世界においては形というものは考えられないからである。形成はどこか他のところから、すなわち虚無から考えられねばならぬ。形成は常に虚無からの形成である。形の成立も、形と形との関係も、形から形への変化もただ虚無を根底として理解することができる。そこに形というものの本質的な特徴がある。」

 私が描く泡沫のようなドローイングに、何か説明を添えるような文面を模索していた先に触れた言葉だった。取り急ぎ反芻することなくこの地へ足を運んで、今、脚下の泡沫に私は何をみる。あの龍はわたしに何を微笑む。


 私を取り巻く出生時の星たち。遭遇することすら奇跡的なそれらの配置に、運命のごとき光の輪が折り重なって、この泡沫のようなわたしという、一粒に似た人間の生命が動き始める。いつ消えるとも、またいつ生まれるとも、清流の一部であり地球の一部である、うたかたの姿。虚無であることが人間の条件であるなら、この泡沫のような一粒が織りなす全体〈人生〉は、かたちづくる性〈創造〉に突き動かされた生命のかたちか。