Shibu-kyo Ph:3 / 2011

「繋ぐ」

2011年は、私が美術を習い始めた頃通っていた研究所に併設されているギャラリー健での個展から始まった。原点に返るような気持ちで、今までの作品を当時お世話になった先生方や友人に観て頂くつもりで、ここからまた歩き始めるつもりで、個展にのぞんだ。会期中に開いた小さなパーティには懐かしい面々が顔を揃え、互いの近況報告や当時の思い出を振り返って楽しい時間を過ごした。そしてその中に、私が慕う芸術家春のうららも居た。春のうららは当時栃木県那須市那須温泉湯本より標高の高いところにある、丸太づくりの立派な老築の一軒家に住んでおり、ほとんどの金銭を自身の芸術に向け、山奥でひっそりと制作の日々を過ごしていた。そんな彼がわざわざ電車を乗り継ぎ、さいたま県まで来てくれたことに私は本当にびっくりして感激だった。ギャラリーの窓越しに近づいてくるうららを見つけた時には、思わず外へ駆け出し迷わず彼に抱きついた。そのくらい奇跡的な出来事だった。再会を歓びギャラリーに集まってくれた方々にうららを紹介して、私たちは沢山お酒を飲み沢山話を聞き楽しい夜を過ごした。翌日改めて作品を前にしてうららと語り合い、私の今までの経緯を知る彼から「失敗してもいいんだから、どんどんやれ!」という力強いメッセージをいただいた。そして、それがうららと交わした最後の会話だった。

今でもよく覚えている。午後までの講師の仕事を終え、家に着き飲み物を手にしながら何気なくテレビをつけた瞬間だった。テレビから地震の映像が現れ、固唾を飲んでみるよりなかった。すると私の住む地面も揺れ始め、思わず家から飛び出て裏山を見た。目の前に広がる田畑を見た。家周りの電線が大きく波打っている。地面がゆっくりと、まるでお釈迦様の手の平で揺さぶられているかのように大きく円を描くように動いている。長い間音もなく不気味に揺れる山を、私は庭に立ち尽くしたまま眺めていた。

2011年3月11日の東日本大震災は、春のうららだけでなく多くのいのちを無慈悲に奪った。凄惨な自然界の痕跡に、誰もが人間の無力さを痛感しただろう。目を背けている自分がいる。何もしない自分がいる。何もできない自分がいる。何をどうすれば誰のためになるのか。イメージも思考も働かなかった。そんな時、渋響を企画運営していた星さんからメールが来た。「渋響Ph:3の開催を決定しました」。だったらやろう、すぐそう思った。渋響で今の私にできる表現をする。大切な芸術家を失った私なりのやり方で彼を弔おう。ここから風船のインスタレーションは始まった。
その頃私が感じていたのは、突然にいのちを絶たれたもの、残されたもの、その両方から発するジレンマだった。身体は無いけれどまた温かな生き物の気配がそこら中に漂っている。逝くものも見送るものも潔く手を離すなんてできない。そんな情緒的な気配をどうしても拭い去れず、それは私の勝手な想念だとしても、この両者を繋いで戯れる場をつくること。これをこのインスタレーションのコンセプトにした。そして期限を4回に絞った。

残された側が実際に手に取れるもの、けれど儚さや無慈悲を、悲しみなく受け止められるような形、そして逝くものがそっと宿れるものの象徴として私のヴィジョンは風船に辿り着いた。すべての光の波長を合わせると光は無色に成る。そして可視光線の乱反射を人間は白色と知覚する。逝くもの、見送ってここからまた生きていくものをたとえる色を私はこの2色に置き換えた。風船自体のバリエーションも加え、会場である渋温泉臨仙閣に見合うよう仕立てた4種類3色600個の天然ゴム風船を膨らませた。大きな床の間には、一年前に制作した言葉のパネルを配置し、小さな飾り棚には「たった一つの」という意味を含む2010年に制作した版画作品を添えた。

夕刻に渋響がスタートし、薄明かりの灯るこの部屋へも浴衣姿の人たちがやってくる。歩くたびにボワンボワンと音がなると、誰もが無邪気に戯れ始めた。溜まった風船にダイブしたり、有り余る風船を天井高く弾ませたり、座り込んで顔を埋めたり、思い思い考えつく限りのやり方で、来る人たちは遊んでいた。

293 393S354

渋響Ph:3Installation「繋ぐ」
天然ゴム風船600個[クリア9インチ、11インチ、ホワイト9インチ、パールホワイト11インチ]
「-monos.」2010年制作/版画額装
「言葉」2010年制作/木製パネル
2011年3月26日27日/臨仙閣 観水亭
撮影/平松マキ