exhibition view
Le toucher / 2016
topos / 2015
Shibu-kyo Ph:6 / 2014
Shibu-kyo Ph:4 / 2012
Shibu-kyo Ph:3 / 2011
topos2014
at HARICOT ROUGE(http://homepage3.nifty.com/haricot/)
Exhibition Statment「いいさ、繭玉で生きてやる」
遠い記憶ではない
今もここに内在する繭玉
生命の生死の過程で一過するその姿は
人知れぬワタシをなぞり
予測不可能な展開で
ふ化する残像
乾きはしない
水面に落ちた一滴の振動にも感応する
微細な心のひだは
常に動いていて
瑞に満ちている繭玉のジュレ
丸いスプーンで優しく掬って
やわらかな輪郭を
あなたの口許へ文責 / ごとうなみ
創作にフォーカスする生活へと身辺の些末な余計を整理し美術家として独り立つことを敢えて意識して再起動したと自らを説明するこの女性作家は若いわけではない。創作の想像力に、経験の身を投じて塗れる時間は、半年前には抑制的なあるいは緊縛的な硬直の名残りがあったが徐々に、柔らかく豊穣な許諾をいちいち細かく許していくように、習作地味た小品と大型の画面との差異など全く無頓着であるかの手付きで、メソッドの確立という美術家にしてみればオリジナルティーの獲得、作品における自己同一への最短距離の道筋を選ばずに、むしろ次々にあらたな奔放を見いだすかに、自在を獲得するような姿勢で、制作を継続している。同時期に開催されているN-Art展での作品展示展開は同一作家によるものと思えない。その差異に一瞬目眩を与えるのは、そうした姿勢のせいかもしれない。
初めてのトポス高地個展では、スケッチブックに仕舞われていた過去のオイルパステル作品と現在の進行形が併置される展示となった。梅田氏による木版画作品と昨年のまつしろ現代美術フェスティバルで出品した平面作品も置かれた。つまり作家も観る側も緩くひとりの美術家の創作時間というボリューム(過去から現在)を振り返るような眺めの仕組みとなっており、総てが新作という展示でないのは、作家にとって個展開催自体にブランクがあったという理由もあるらしい。高原の光の中ではガラスの反射が瑞々しいオイルパステルの色彩を遮ってしまうから、額装をやめてパネル自立型の作品仕様としたことが、功を奏して、薄暗いコテージレストランは明るく爽やかな光がもたらされている。
いわば美術家の生活宣言のようなニュアンスも含むこの個展は、戦略的なことや、手法的なこと、テーマ性などが突出せずに、固有なひとりの創作のあるがままがまず眺められ、そして個々の作品のディティールへ近視眼的に歩み寄れば、時間が繋ぐ物語性のような囁きが聴こえてくる。「繭玉」とタイトルに置かれた言葉の思春期の女性が零しそうな自己投影のイメージと作家自体を等価する感想はこちらにはないけれども、おそらく本人も気づかない濃度の寓話性が絡まって解(ほつ)れ、また捩れ、あるいはぽとんと孤立するかに、作品の藝術を我々(美術家と観るもの隙間に)へ生成させている。という、進行形時間の動きが内包された繭を浮かべるのはむつかしくない。ジュレ(ゼリー)という瑞々しさの提示は、美術家の現在の創作生活の「悦び」と受け取った。
美術家の想像力を、何事かの帰結、あるいは結果を求める問いなどと浅薄に受け止めずに、生そのものの顫動と考えれば、未来への展開の脈動に感応することが、つまり藝術を理解する方法といっていい。
文責:町田哲也