ちいさな萌芽

新型コロナウィルス感染症対策によって一般公開されずに終わった今年度のレジデンス成果展。参加アーティストのための説明ツアーが開かれ、レジデンスアーティストとの制作意図を含めた対話が各々の作品の前で開かれた。わたしはこの一年ことごとく日程的な理由もあってアーティスト会議などに参加できず引きこもっていたから、実際ほとんどのアーティストとその作品に触れるのは初めてだった。見て回ると様々な発想と制作に出会う。年度終いだからこの春から違う場所へ越す方もいて、おそらくもう二度と出会うこともない一時に、同じ土地に居た不思議を思った。
折しも東京がロックダウン寸前の今、わたしはここにいる。
アーティストとして生きる傍ら生活のためのライスワークがある。けれど、そのライスワークが今回のコロナ対策によっていよいよ成せなくなってくると、それは事実上今までの生活の崩壊を意味し、自分の生命全般を苦しくも走馬灯のように洗いざらい俯瞰せざるを得ない。そしてその俯瞰が今まで気づかなかった新しい視点をうねりながら教えてくる。人生に他人は不可欠だけれど、小さなことから大きなことまで無意識の間に比較して、足りないものを補おうと補償行為を繰り返していた自分。それが当たり前になって居た自分。明日の保証がなくなって今という現実しかない状況になって、最終的にわたしには何が必要かと問えば、自分の気持ちがまる裸になる。芯が見えてくる。
わたしの絵は、出会いを求めている。アートは、絵と絵を観つめる人とのあわいに発生し、はじめて存在の意義がある。成果展前の個展Drecter’s selection#3でわたしは改めてそれを強く感じた。人と絵が出会うために画家がいる。わたしはそれを生きている。絵を、求めている人の元へ届けるために生きている。わたしは展覧会を開き、絵はその人と出会い、その双方の喜びの循環を糧として、わたしはまた絵を描いてゆく。
真っさらな画布に向かって一筆を落とす時、一体わたしはこれから何を描くのだろうと、いつも思ってきた。そしてそういう制作自体がいいのか悪いのか、本来なのか、確信を持たぬまま描いてきた。無明へ投げ出されたままの、誰に言うでもない呟きに、誰でもない、目の前のスポットライトを当てられた絵が、強く、自信を持って静かに答えている。制作の過程をうまく説明できなくてもいい。表れた絵が、出会うべき人と出会えば、そのためにわたしは居るのだから。
いつも空っぽでいい。そしてそれをもっとこれからもそうやって生きていい。
世界を信じて身を委ねてごらん、もっと飛び込んでごらんと、与えられた海が一年を経て漸く今わたしの前に広がっている。

父母と同じわたしのドラゴンヘッドとドラゴンテール。父から始まり母で終わる。
わたしの幼少期から今に至るまで許せずにいた母の行いを、わたしは許容し委ねていく。
これがあの三面鏡の結末。
絵は手放すことではじめて完成する。人に出会って循環がはじまる。