感情考






絵は一人で描くから、感情の波が押し寄せてきた時どうやってやり過ごすかが私の場合重要である。今よりもっと脆弱な体幹だったころは、自分の感情の輪郭を掴む術を持たず、荒波にのまれたままよく座礁していた。海坊主に憑依されると海底へ引きづり込まれて帰ってこられない。そうやって画布を捨てたことが今までに何度あったことか。とは言えそれは次の絵の下地になっていくので実際に破棄することはほとんど無い。それでも絵の具や油には悪かったなあと思う。解覚や心身をコントロールするに至らなくとも、自分が何を感じているのか、そして次にどうしたいのかをなるべく早い段階ではっきりとさせることが暗に飲まれない方法だと最近ようやく自分なりの方法をひとつ見出したようだ。でも今日は海坊主め見事だった。飲み込まれてしまった。

わたしの感情はじゃぶじゃぶと湧き水のように絶え間無く溢れ出してくる。山の泉のように水脈が分かっていれば清水を汲んだり川をこしらえて計画的に活用できそうなものだが、現実に水脈を持つわたしの感情は源泉が定まらない。生きている間中知らぬ間に溢れ出し、わたしという大きな生命を循環する。表層の感情は自覚が容易い。問題は深層部分で気づけば淀んだりぬかるんだり、更には冠水や氾濫を起こすこともある。海坊主はここを喰い物にする。

わたしの場合感情で絵を描くことはまず無いから、制作中はいわば感情を忘れている。でも制作が滞ってきたときそれはジワリジワリと音を立てず波を立てずに重く深く沈んで、存在を気づかれないように心を侵食してゆく。そうしていつもの描く感覚に違和感を感じ始めたころ、ようやく「あっ」とそのぬかるみに気づく。けれど、気づくと同時にそれがトリガーとなって更にそれは深く深く潜ろうとするから、それに対してわたしは焦ってそれが描画にも現れて一層焦燥を煽り立て、絵に歪みが残ってはじめてわたしは描く手を止めるのだ。もっと早くここに至るまでに気づけば絵肌を汚すこともなかったのに、と少ながらず後悔する。今日のはその骨頂だった。焦れば焦るほど風に煽られた帆のごとくどんどん大海原を進み、気づいているのに手を止められなかった。

それは、わたしの描き方にもあると思う。ゴールは今かも知れないしもっと後かもしれない。画面の油海に一度旅立てば、ある意味でわたしには選択肢がないのだ。わたしはただ作業を遂行する役に徹するのみだから。でも経験上、海坊主に足を取られているときはこの役を放り投げて自我の手足をバタつかせている。

これはネガティブばかりではない。逆の高揚感も足を掬われる。どちらかというと高揚感の方が後々の歪みが大きい気がする。透明なニュートラルが一番いい。

その場を離れること。おそらくそれが一番の対処法だと思う。だから、それに気づいた時には描きかけの溶き湯をうまく処理して、筆を洗い、油皿を洗い、猫を撫でるか何処かへ出かける。幸運にも此処長野は少し走れば山々があり、道は山頂へも湖面へも繋がっている。気持ちのいい空気で身体を満たして描きかけの絵をみれば、それはじんわりと変化して新しい表情になっている。油絵のこうした特徴は、わたしも、わたしの絵にもとても救いだと思う。

絵の方が透明でゆっくりと動き
いい距離感を推し量っている。