「エリオットは言う。詩人はつねに、自己をより価値のあるものに服従させなくてはならない。芸術の発達は不断の自己犠牲であり、不断の個性の消滅である。芸術とはこの脱個性化の過程にほかならない。」
「酸素と亜硫酸ガスをいっしょにしただけでは化合はおこらない。そこへプラチナを入れると、化学反応がおこる。ところが、その結果の化合物の中にはプラチナは入っていない。プラチナは完全に中立的に、化合に立会い、化合をおこしただけである。詩人の個性もこのプラチナのごとくあるべきで、それ自体を表現するのではない。その個性が立ち会わなければ決して化合しないようなものを、化合させるところで、個性的でありうる。」
「もともと、わが国の詩歌は、主観の生の表出を嫌い、象徴的に、あるいは、比喩的に心理を表出する方法を洗練させてきた。その端的な例が俳句である。」
「真にすぐれた句を生むのは、俳人の主観がいわば、受動的に働いて、あらわれるさまざまな素材が、自然に結び合うのを許す場を提供するときである。」
「すぐれた触媒ならば、とくに結びつけようとしなくとも、自然に、既存のもの同士が化合する。それは一見、インスピレーションのように見えるかもしれない。しかし、まったく何もないところからインスピレーションがおこるとは考えられない。様々な知識や経験や感情がすでに存在する。そこへひとりの人間の個性が入っていく。すると、知識と知識、あるいは、感情と感情とが結合して、新しい知識、新しい感情を生み出す。その場合、人は無心であることがのぞましい。ある数学者が、長い間、ひとつの問題に取り組んでいて、どうしてもうまい解決ができないでいた。あるとき、うとうとと居眠りをした。そのあと、目をさますと、突然、謎が溶けていたという。この場合も、意志の力が弱まったところで、はじめて、それまで別々になっていた考えが結合されて、発見となったのであろう」
「思考の整理学 – 触媒」外山滋比古著/筑摩書房より抜粋