記憶の笹

「結局、お母さんのアトリエって感じだね。何処へ行っても」と娘がスウィッチを弄りながらボソッと言う。「まあね」と私もその通りだなと思う。
レジデンス生活で味をしめた。目が覚めて横を向けば昨日の絵が見られて、その瞬間に今日がスタートするって言う日々を。生きる中心に制作を置くと使い勝手も馴染みのある配置になるから、備品の違いこそあれ空間の佇まいは必然的にこうなるんだな。
これで孫でもできたらちょっとは変ってくるのかもしれないなんて、楽しそうな未来もちょっと想像した。

ここもそう長くは居られないから、まだ本格的に絵に取り掛かる支度になれなくて、
描こうと思っていた小品を手がけている。
それは以前頂いた花束の写生。

卒業や旅立ち、別れ、祝福やお見舞い、お礼。私たちが花束を頂くシーンは日々の中でいろいろあって、それはお花に託した人の気持ちたち。その人と、その場所と自分が関わりあったしるし。生活の真ん中に制作を配置するにつれて人と交わることも少なくなって来た私にとって、こうして接した証しを描きおこすことは生きていた証にも繋がるから、いつからだったか続けていこうと決めた。
 部屋へ遊びに来る友人が来しなの花屋で買ったと言う3本の黄色いガーベラも、春先に道端を彩る小さな花たちも、まずは写真に撮って順々に描いていく。どこに出すでもない絵。私の記憶を支えるだけの描写。

横浜で得た一番深い核心が、ぬるい重力の中でボンヤリしている。
知覚や体感からその音が響いてくる。