「俯瞰-いつもどこかに」
drawing/625×880mm/charcoal graphite/2018



「私は大金持ちではないから、外でうまいものを食べることにほとんど希望ももっていないし、期待もしていない。だから、特定の店のなじみの客となることもなく、またそういう「なじみ」客の特権をもつことがかなわないので、猫も杓子もいく食堂のようなところがむしろ好きである。どこででも、いつでもイチゲンさんというのが気楽で好きである。イチゲンさんだからこそ、マカロニがスパゲッティーに化ける現場に出会う機会もある。気が小さいせいか、お酒を飲むのも家でいつもひとりで飲んでいるが、気持ちのいい友人となら酒場でいっしょに飲むのも好きである。ただ、これも、酒場というのが、どうしても「なじみ」にさせるものなので避けてしまう。久しぶりにいって、お久しぶりですね、どうしておられたんですか、という風なことをたずねられるのが、気の小さい人間には鬱陶しい。昔の西部劇に出てくる荒野の街の酒場みたいに、先に銭を払い、その分だけの酒が出て、それを黙って飲んで黙ってすっと帰る、というのがわたしの理想的飲み方だけれど、女ひとりで、そういう風に飲ませてくれるところを知らない。 こんなわたしの偏屈、というより閉鎖性は、いろいろの滑稽な困難に出会うことになる。ひとりで暮らしていた時、しばらくの間夕食は外でしていた。といっても毎日毎日高い料理屋へいけるはずがない。かといって、近所のそば屋でいつも天どんというわけにもゆかぬ。女ひとりが、黙って感じよく、しかも適当な値段で、適当にいろいろの種類のものを食べるのはまことにむずかしいものであった。安くておいしい小さな和食の店を見つけても、三回もつづけていくと、もう「なじみ」扱いで、あれ、今日はビールいらないの?などと主人や常連が話しかけるようになる。すると、そこへはもういくのをやめる。かといって好きな食堂風なところへいけば、子供づれの家族の間にはさまって、女がひとりでものを食べているのも気兼ねであり、めし屋でひとりで食べていておかしくない景色が、女だとどうしても目立ってしまうのだった。女が夕食を求めて、(と言っても夕食代くらいはあるのだが)歩いているのは滑稽だった。-中略-ただ、他人といっしょにものを食べることに、いつも恥ずかしさがあって、よく知らないひとと食事をすることは、よく知りもしないひととひとつの蒲団でねるような感じがある。食べることは楽しいけれども、じつはあさましいことでもある。もっとも恥ずかしい食事は、恋人とか好きなひととふたりきりでする食事である。今は、おいしい食事を誘ってくれるひとがいたら喜んでついていくように面の皮もあつくなったが、以前はよくゴハン食べませんかといってくれる男のひとに、わたしはゴハン食べる虫じゃない、といったことさえあった。これでは、女ひとり夕食求めて三千里の景色になるのも無理はなかった。なじむことが嫌いだというのは、食べもの屋だけでなく、おそらく他のことに対する性癖にも共通するのだろう。ただ、食べものは他人を期待せずに自分でこしらえるようになった。といって、料理を趣味にするほどの熱心もなく、仕方なしに自分の食べるものくらいはこしらえるという程度である。これはわたしが女だからではなく、もし男でも同じことをしていると思う。今、他所で食べておいしいと思うのは六十五歳くらい以上の、娘のころからゴハンごしらえを家の中でしてきた元主婦のつくる平凡なオカズぐらいである。こしらえるものに、つくり手の人生のおいしさが出てくるのは料理だけではないが、おいしくないものにお金出すほどばかばかしいことはない。」(「兎のさかだち」富岡多恵子/中央公論社昭和五十四年六月発行より「なじみ嫌い」抜粋)