「影と痕跡と鏡像、これら絵画の起源とされるものを、それぞれ別のことば、とくに作用を意味する用語で言い換えるとすれば、順に、投影(プロジェクション)、接触(タッチ)、反省=反射(リフレクション)ということになるだろう。さてこれらの神話で興味深いのは、いずれも、絵画的イメージが、対象を直に模写したり模倣したりした結果によるのではなくて、媒介物をあいだにはさむことによって生まれたとされていることである。投影にせよ接触にせよ反省=反射にせよ、それらの作用によってあらかじめ二重化されたものが、対象と絵とのあいだの媒介項として想定されているのである。パースの記号論を援用するなら、絵画はもともと、類似にもとづくイコン記号としてでも、約束にもとづくシンボル記号としてでもなく、因果関係にもとづくインデックス記号として誕生した、ということになるだろう。周知のようにプラトンは、この世の事物をイデア界のコピーにすぎないととらえ、そのまたコピーが絵画にほかならない、したがって絵画はイデアからかけ離れることはなはだしいと難じていたのだが、それどころか、これらの神話をプラトン流に読み替えると、コピーのコピーのそのまたコピーということになるだろう。さらに三つの神話に共通しているものとして、ここで見過ごすことができないのは愛と死のテーマである。大プリニウスの語る影の持ち主は、戦死することになるかもしれない運命が待ちうけている兵士だったのであり、「ヴェロニカ」の場合も、十字架を担いでゴルゴタの丘に向かう惨めなイエスに、ひとりの女がハンカチを差し出したものだった。ナルキッソスについては、言わずもがなであろう。水鏡の像に恋焦がれるあまり、かの青年は泉に身を投げたのである。三つの神話に共通するこれらの事実は、わたしには、きわめて意義深いもののように思われる。というのも、影と痕跡と鏡像という媒介物は、それぞれがまた文字どおり、二つの世界を媒介しているからである。すなわち、影は、あの世とこの世のあいだを、痕跡は、聖なるものと俗なるもの、現前と不在のあいだを、鏡像は、現実と虚構のあいだを、といった具合である。それゆえ、三つの媒介物から生まれたとされる絵画もまた、これらの世界のあいだを媒介するものとなるはずである。さらに、不思議なことに、影にせよ痕跡にせよ水鏡の像にせよ、わたしたちにとって、透明でもなければ不透明でもなく、どちらかというと、限りなく半透明に近いイメージとして存在してはいないだろうか。それらは、堅くて厚い物質や肉体の不透明さから引き剥がされて、まるで薄い半透明の幕のようなものとなって、何処とも知れず漂ってはいないだろうか。このように、絵画の起源をめぐる神話にヒントを得るなら、媒介項として半透明を捉えることが此岸と彼岸のあいだ、天上と地上のあいだ、超越性と内在性のあいだ、フォルムとアンフォルムのあいだ、といった具合に、存在論的でも認識論的でもある様々な境界を媒介していると、捉えることができるのではないだろうか。とすると、肝心なのは、この媒介項としての半透明がいかに作用し、いかに機能しているかを見極めることである。
(「半透明の美学」岡田温司著/岩波書店/2010より抜粋)