1,770m暮色





2021年の夏、初めての暮色を山頂で見たくて、竜王へ向かった。初めて行く場所にワクワクしながらゴンドラに揺られ山頂に到着。1,770mでも今日は流石に陽射しが厳しい。着いてすぐは村との気温差に感動して、テラスで眼下を眺めたり真っ青な空を見上げたり敷地内をぶらぶら散策したりと外にもいられたが、小一時間も日光に当たれば流石に暑くなってくる。唯一ある冷房はカフェ内だけだけれど、その空調は私にはぼんやりとぬる過ぎるうえ山頂の清々しい空気と比べると人工的に感ぜられ、10分もいると居たたまれなくなり、やっぱり外へ逃げるしかなかった。外風はそよそよと弱くでも吹いているから、なんとか居場所を変えながら夕刻までゆっくりと、山を楽しむ。ここしばらく読みかけて放っていた本を持ち込んだので、代わる代わる空く外のベンチに腰掛けて読書などしたり。じわりじわりと時間が進んで、気づけば3時間ほど経っていた。黄昏を見ようと登ってきたカップルや家族連れが多くなって、空にはととんぼの群衆が悠々と飛んでいる。里に秋がやってくるまでとんぼはこうして涼しい山間に逃げ込んで夏を過ごすのだと、以前住んでいた山村でお婆さんから聞いた。多分私は死ぬまで、山でトンボを見かけたらこのお婆さんの教えを思い出すのだろうなと思う。インドの山で数ヶ月暮らした時も、私が水場で洗い物をしていると地元のマタジーに「水は大切に使わなきゃいけないよ」と諭されたことがある。その智も事あるごとに蘇って今の私に語りかけるし、無防備なときに他人から言われる何気ないひとことというのは、知恵なら時代を超えるバトンになったりするんだな。
めくるめく空想をしていたら、メインディッシュの時間になった。

暮色は久しぶり。そして、とても綺麗だった。恋人たちだけでなく熟年夫婦や大家族連れ、様々な人がこの美しい夕景を眺めて、想い想いの言葉を交わす。非日常の体験は、素敵な感嘆と時間を生み出して、共通財産になるんだな。ハレとケをうまく使って死ぬまでに言うであろう沢山の言葉に抑揚をつけて。

日が暮れかけた途端、あれだけ沢山飛んでいたトンボはみるみる消えて、何だろう?黒い虫がバトンタッチ。縦横無尽に飛んでくる。こんなに目の前の現象は美しいのに、現実はポチポチと体当たりしてくる虫たち。そんなもんだよなと妙に納得しながら景色を堪能した。


帰りのゴンドラで一緒になった子どもたちが「楽しかった」とこれ以上ない素直な感想をそれぞれ口にしているのを、私は、下る大きな窓から最後の赤色雲を見ながら聞いた。子どもたちのその何気ないひとことは、一瞬にして私の心をギュっと握ってセンチメンタルに拍車をかけた。
老人と子どもの言葉は、気を許しているとヤバい。