「茶室というのは、現実を超えた非日常の空間でなければいけない。そこで遠近法を使った。ふつう遠近法といえば、ルネサンス絵画がそうだが、絵の中にあたかも奥行きの空間があるかのように「リアル」を感じさせるための手法と考えがちだ。しかし、それは違う。遠近法は、たんに「まるで見たとおり」の世界が現れるようにする手法ではない。絵画というフィクションを現実であるかのように変換する。それだ。そして、この変換は、逆も可能だ。つまり現実の空間に、遠近法を使ったらどうなるのか。茶室という建築空間に遠近法を取り入れることは、この「変換」を逆にすることである。だから茶室に遠近法を取り入れることで、フィクションが現実になるのではなく、現実がフィクションになる。茶室という現実空間にいるのに、あたかも非現実の空間にいるようになる。特庵の遠近法は、単に狭い部屋を大きく見せることが目的なのではない。そこを非日常の空間に演出することが目的なのだ。そんな空間で、茶を飲む。いったいどんな世界が見えるのか。ここではない「どこか」に自分がいることを感じるだろう。千利休が、茶室に秘めたのはそいうことだ。その利休に、こんな言葉がある。「花は野にあるように」今でも、茶の勉強でしばしば使われる言葉だ。例えば、茶室の床の間に花を活けるとき、「花は野にあるように」活けなさい、そんな言い方がされる。下手な作為を排して、自然の野に咲いているふうに、という助言が付け加えられることもある。しかし、「千利休の意図は全く反対のものだ」と言った人がいる。昭和の作庭家重森三玲だ。彼は利休の言葉を、こう解釈した。利休の時代、「花」といえば誰もが「山桜」を指すと考えた。春に山を見ると、緑の木の合間に、ぽつんぽつんと山桜がある。ピンク色の花を咲かせている。山桜という花は、山の斜面の森などに咲いている。つまり山桜は、「野」に咲いてはいない。タンポポやレンゲの花のようには、野原に咲いていない。しかし利休は「花は野にあるように」と言った。野には咲かない花を、野に咲かせる。これはフィクションを作れ、ということだ。その時美が生まれる。そもそも、自然のままに花を活けるなんていう考えを徹底していったら、それでは自然科学になってしまう。生態的に間違わずに花を活ける。利休は、科学を勧めているわけではない。茶室の遠近法と、「花は野にあるように」という言葉。この二つには通じるものはない、と思われるかもしれない。しかし、ここまで説明したように、どちらも現実を超えたフィクション、そこにこそ美があるという考えで一貫している。それが千利休の美学だ。そして「そこ」とは何処かといえば、それは脳の中に他ならないだろう。外の現実に芸術の空間があるのではなく、現実を歪めて非現実な世界を作ったときに、芸術が生まれる。芸術は脳の中にあるのだ。」ー(体の中の美術館/筑摩書房 布施英利-2008年)